更新日:2010.6.18
若者よ だまされるな 其の一
先日東京から、おちゃめでかわいらしい女子学生三人が私の事務所を取材に訪れた。 東京都内の大学に約十万部発行している学生新聞のスタッフだ。
彼女たちは、「私たちは大学三、四年生だが、いまだ進路が見つからない。卒業したあと何をしたらよいか、多くの学生が迷っている。春山さんから今の若者たちへのメッセージがいただければ」というのが取材の趣旨だった。
「なぜあなたたちが、たかだか二十歳や二十一歳で自分の進路を決めねばならないのか。だれがそんなことを決めたのか。だまされたらダメですよ」と答えたところ、
彼女たちは「私たちは、だれにだまされているのでしょう?」と目を丸くした。
■ 受験失敗し海外へ
私の親父(おやじ)は成金であった。その性(さが)か、将来息子たちを医者か弁護士にするという、ありきたりのストーリーの中で育てられた。
兄は、優秀な成績で国公立大学の医学部へ入り、親の期待通りの人生を歩み始めたころ、
高校生になった私は、なぜ「医者になれ、医者になれ」と言われ続けてきたのかをぼんやりと考えた時、決して医者になどなりたがっていない自分に気づくようになった。
その一方で、小さい時からのワンパクな性格もあって、ゲームのように「どうせなら兄貴よりいい大学を」と目指した。
二年浪人し、国立の医学部受験に失敗。
それでも医者を目指せという親父とけんかの末、家出同然に友達のアパートに転がり込んだ。
六ヶ月間、昼も夜もアルバイトをしてやっと貯めた六十万円。その時の目標は「パリに行きたい」だった。
かつて読んだ萩原朔太郎の「ふらんすへ行きたしと思へどふらんすはあまりに遠し。せめては新しき背広をきてきままなる旅にいでてみん」という詩。
また金子光晴が書いた「眠れパリ」という、今思い出しても胸が熱くなるようなメッセージを受け、サルトルやボーヴォワールを生んだ実存主義にかぶれるような思いでフランスを目指した。
その本質が逃避行であったことは間違いない。ヨーロッパ、北アフリカをさまよい、考えた。それでも自分が何をすべきか見つからなかった。
運命の歯車は家業の倒産へ。
親父からの突然の連絡を受け一年半ぶりに帰国すると、あれほど大きかった屋敷はまさに他人に取られようとし、栄華を極めていた家に借金取りが乗り込んでいた。
この社会の坩堝(るつぼ)を見ながら、私の社会人としての人生はスタートした。
(次回に続く)
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