更新日:2010.11.5
ささやかでも爽やかに 其の二
■ 子供への思い力に
ただ、残りのページを想像する時、ひとつだけ無性に悔しいと思うことがある。
それは、子どもたちのことだ。
妻の由子は自分の意思で私を夫に選び、自分の意思で私と暮らしを続けている。
しかし、子どもたちは親を選べなかった。
父親の体が不自由であることを負い目に感じないように、私も由子も意図して自分たちの生き方を彼らに見せてきた。
そのおかげで、私たちはささやかでも温かい家庭を築くことができたと自負している。
しかし、どんなに頑張ってみても、私には二人の息子が不憫(ふびん)に思えてならない時がある。
思い返せばキャッチボール一回してやったこともなく、浜辺を肩車して遊んでやったこともない。
父親らしいことは何もしてやれなかったと思う反面、それでもおまえたちの父親だと、私にしかできないことを見つけようともしてきた。
だからこそ、彼らには思う存分自分の好きな人生を生きて欲しい。
興味をもったことには納得できるまで挑戦して欲しい。
そのための精神的、経済的な支援だけは何が何でもしてやりたい、という思いはひとしおだ。
あと何ページ私は人生のページを捲(めく)れるかはわからないが、せめて中学三年生の次男が大学を卒業するまでは、石にかじりついてでも生き延びたい。
できれば、バリバリと働く現役のビジネスマンとして生きていたい。
そんな思いが私の萎(な)えた肉体に、エネルギーを送り続けてくれるのだろうか。
それは、いつもどこかで人生の最後を意識しながら生きなければならない私に与えられた、ささやかな特権なのかもしれない。
(次回に続く)
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