更新日:2010.7.14
第一章 「妻が泣いた日」 其の四
■ 「一滴(ひとしずく)の涙」
あれは、今日のような日曜日の朝のことだった。哲朗と龍二はすでに起き出し、下のリビングで騒ぐ声がしていた。いつもなら起きるはずの由子が、寝息をたててぐっすりと寝入っている。首を回して枕元の時計を見ると針は十時近くを指していた。
私は、寝返りの打てない体の痛みと、早く起きてやらなければならないこともあって、しだいに苛立ちはじめていた。健康な状態なら眠っている妻を起こさずに、そっと自分だけ起きて、したいことをすればいい。だが、私には、それができない。
「由子、そろそろ起こしてくれ」
疲れがピークに達していたのだろう。私が声をかけると、彼女は眠そうな声で言った。
「もう少し、寝かしといて……」
そんな会話が四、五回繰り返された。そして苛立ちのあまり、私は声を荒らげてしまった。
「起こせいうたら、起こせ!もうええかげんにしてくれ。おまえらは寝返りも打てるけど、こっちの身にもなってみろ。おまえもしんどいと思うけれど、こっちもこれではたまらん。そんなにしんどいんやったらヘルパーでも何でも雇え」
由子は、私のほうに首だけを回して言った。
「そんなの要らん。夫婦の中に他人が入ってくるのはイヤや」
「ほんまに要らんのか。オレが金を稼いでいるのは、おまえに万が一のことがあっても大丈夫なように、それを励みに稼いでるんや。もうそんなにしんどいんやったら、おまえの代わりに二人でも三人でもオレ専任の介護する者を雇え!」
やっと起き上がった由子に、私は吐き捨てるように言った。
「介護……って。私はあなたを介護するために……」
私を車椅子に移した由子の頬に、一滴の涙が流れていた。
由子が私に涙を見せることはめったにない。私は、言ってしまってから「すまないことをした」と思った。おまえの代わりに、なんて――。由子の代わりなんて、いるはずがなかった。
由子は、私の介護のために生きているのではない。介護は、介護される者と介護する者との関係でしかないが、私たち夫婦はそうではない。もちろん私は由子の手を借りなければ何もできない“手のかかる長男”だけれど、私は由子が好きで、そして由子も私を好きでいるかぎり、私たちには「介護する」「介護されて
いる」という関係は存在していなかった。
私たちはお互いの存在が生き甲斐であり、ともに人生を戦い抜く戦友であり、未来への道を歩きつづける、かけがえのない相棒なのだ。
夫婦には、ともに生きていくなかで何度かお互いの存在を確かめあう瞬間があるが、私は、あの時、由子の涙に、その意味を知らされたのだった。
(次回につづく)
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