更新日:2010.8.18
第二章 「モルモットにはならない」 其の四
■ 「体に何かが棲みついた 下」
「何や、おまえにスキーを教えたから、オレが下手になってしまったんかな」
そう冗談を言って立ち上がりながら、私は、ずいぶん変な転び方をしたものだと思っていた。
急斜面を滑っているときは、体にもそれなりの緊張がある。
上級者になれば、どんな状況でも反射的に筋肉が対応して、体の安定を保つことができる。
まして、緊張していないといっても、緩やかな斜面でエッジも使わず、ただゆるゆると滑り降りていく雪道で転ぶことなど、あるはずがなかった。
ところが、このときの尻もちといい、昨日ストックを握りそこなったことといい、無意識に、突然のように力が抜けてしまった。
激しい運動をしたあと何をする気力もなく、一日中寝ころんでいたくなるような脱力感ではない。
自覚した疲れや自分の意思とは関係なく、手足に力が入らなくなっている。
それまでには、まったく経験したことのない感覚だった。
体の中に得体の知れない生き物が棲みはじめているのかもしれない。
私は、何となく不安になった。
由子は、そんな私の変化には気づかず、早く温泉にでも入って夕飯を食べようと嬉しそうに宿への道を滑り降りていった。
その日の夜は、寝床に就いても、なかなか寝つけなかった。
ゆっくり温泉に浸かって体は温まっているはずなのに、爪先が冷える。
私は、それまで真冬でも布団から足を出して寝ていたほどの暑がりだった。
足が冷えて眠れないなんて初めてだ。
私の体に棲みついた何かが、徐々に足先から私を蝕んでくるような気がして、何度も寝返りを打った。
当時、私と由子はよく仕事の合間を縫っては旅に出かけた。
東北から北海道を回る貧乏旅行のときも、由子は身の回りのものを小さなバッグに詰めただけの軽装だが、私は二人分の荷物を大きな登山用のキスリングに詰め、それを担いで歩き回っていた。
中学時代はバスケット、高校時代は硬式テニスをしていた。
夏は若狭湾で素潜りをし、サザエやアワビを採って遊んでいた。
そして冬にはスキー。体力には人一倍の自信があったのだ。
しかし、赤倉での出来事以来、私の体の中で何かが起きようとしていた。
(次回につづく)
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