更新日:2010.9.1
第二章 「モルモットにはならない」 其の六
■ 「目を背けたい 下」
赤倉のスキーから半年ほど経ったときのことである。その年の夏、私と由子は若狭湾に泳ぎに行った。浜辺を二人で走っていると、私は由子についていけなくなった。
「どうしたん?………」
「ああ、腰が痛くて、あんまり走られへんわ」
「腰って、高校のときに打ったとこ?」
「ああ……」
高校時代、悪友たちと授業をサボって京都・大原の三千院に遊びに行き、欄干のない橋の上で遊んでいるとき、足を踏み外した。三メートル下の川に転落してしたたかに腰を打ってから、ときどき腰が痛むことがあった。
由子はそのときのことを知っていて、そう聞いたのだった。このころ、由子は私の体の変化に気づきはじめていたのだが、私はいつもそう言ってごまかしていた。
「一度、病院へ行ってみたら?」
「ああ」
こんな会話を何度したかわからない。しかし当時の私は、忙しかった不動産業の仕事にかまけて、病院へ行こうとしなかった。まだ日常生活にそれほど不自由を感じるほどではなかったし、何より自分の中に起こりつつある異変に目を背けたかったのかもしれない。 だが、やがて以前のように走ったりすることは、とてもできなくなっていった。
そんな私の変わりように、由子ばかりでなく親しい友人の一人が気づいた。
大阪の日生病院に勤めていた彼は、私が頼んだわけでもないのに、病院のコンピュータで私の症状を検索したらしく、こう言ってきた。
「春山、おまえちょっとおかしいかもわからんぞ。ひょっとすると筋肉の病気かもしれん」
このとき、私は、筋ジストロフィーという難病があることさえ知らずにいた。
だが、自分の借りていたアパートの四階までの階段を昇るのさえ、一段一段、足を引きずらなければならない状態になっていた。
私の兄は小児科の医者である。ある日、その兄が私の様子を見かねて言った。
「おまえ、最近おかしいぞ。筋肉疾患かもしれん。専門の病院でちゃんと診てもらったほうがええのとちがうか」
私はその言葉を何度か反芻したあと、ようやく病院を訪ねることにした。
(次回につづく)
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