更新日:2010.9.15.
第三章 「神さまの試験」 其の一
■ 「明日が見えない 上」
私の寿命が、あと何年なのかはわからない。 ただ、難病と宣告された二十六歳のとき、「いずれは……」と、医師に曖昧に言われただけである。 わかっているのは、健康な人ならまっとうするだろう寿命を、私は生きることができないであろうということである。
宣告を受けてから今日まで、私は治療のために病院の門をくぐったことがない。 私は近い将来の死を覚悟して生きてはいない。 おそらく誰もがそうだろうが、生きているかぎり、死ぬことを考えていては生活などしていけないからだ。
元気なときは、明日が永遠に続いていくと錯覚する。人は一日一日成長し、生きていく。しかし、その一方では、一日生きることによって確実に死に近づいている。生きるとは、こうしたものだ――。
私はけっして悲観論者ではない。 がむしゃらに働き、妻や子どもたちと一緒に過ごす人生を、誰よりも謳歌したいと願う。
最近はそんなことを考える余裕もできたが、難病の宣告を受けたときは、とてもそんな状態ではなかった。
あのころの私は、倒産した父の事業の整理をしながら「春山商事」という不動産会社を興したばかりだった。新大阪駅の近くに小さな事務所を構えただけで、一人の従業員もいない会社だった。昭和五十四年、まだ日本にバブルは到来していなかった。
私が独立してすぐに手掛けた仕事は、大阪市内の五五〇坪の土地の管理と売買だった。そこに住んでいる人たちに立ち退いてもらったあとに、大手不動産会社が高層マンションを建てることになっていた。私の予定では、すべてが一年で片づくはずで、その仕事を無事にまとめてから由子と結婚する約束になっていた。
ところが、何軒かの住民の立退き交渉がスムーズに進まず、挙げ句に裁判沙汰になって、問題は泥沼化してしまった。
すでに何軒かはこちらの条件を呑んで立ち退いてくれたので、今度はその跡地を整備しなければならない。土建業者に払う資金とか管理には莫大な金がかかる。その資金を捻出する一方で、残った住民たちとの話し合いや裁判に奔走する毎日が続いていた。
そこに、難病の宣告である。 一時は目の前が真っ暗になる思いだったが、心の底では仕事さえうまくいけば、将来の見通しもたつだろうと考えていた。
(次回につづく)
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