更新日:2010.9.29.
第三章 「神さまの試験」 其の三
■ 「生きていく工夫」
宣告を受けてから二年経ったころ、私は歩くのもやっとという有り様になった。 頼みの車に乗ろうにも、ほとんど握力がなく、ドアを開けることもできない。そこで、私は由子に頼んで釣糸を買ってきてもらい、それを輪にしてドアに取り付けた。その中に手首を入れ、肩の力で引くと何とか開けることができた。
次に困ったのはブレーキとアクセルである。 二つのペダルの間には、わずかだが段差がある。アクセルよりもブレーキのほうが数センチ高い。アクセルを踏むまではいいが、萎えた足ではブレーキに踏み替えるのが困難になった。わずか数センチなのに、足先を上げることができない。そこで、その段差をなくすために薄い鉄板を何枚か重ねてアクセルに取り付け、ブレーキと水平の位置にした。
しばらくすると、今度はハンドルが回せなくなってきた。 筋肉の衰えは指先ばかりか手のひらにまで達してきたのである。そこで考えたのがテニスのラケットに巻く滑止めのテープだった。それを巻くと摩擦が強くなり、ハンドルを握らなくても何とか肘で回すことができたのである。しかし、二ヶ月もすると、腕に力が入らなくなり、低速で車庫入れをするときには、どうにもならなくなってしまった。
「ミッちゃん、こんなもんあるよ」
私が窮地に立つたびに、由子はさまざまなアイデアを出してきたが、このとき持ってきたのは、物干し竿の滑止めだった。それをハンドルに取り付けると、何とか肘で回すことができた。しかし、それも、最初は四つで足りたが、すぐに八つに増やさねばならなかった。
自分の手では、洋服を着替えたり、食事を摂るのさえ思うようにならなくなってきた。 風呂に入るときは必死だった。髪や体を洗うのも大変だったが、何よりも浴槽に入るのが一苦労だった。足が浴槽の縁まで上がらなくなったからだ。それまでは壁に手をつけば、何とか浴槽の縁に足をかけられたが、このころになると、浴槽の縁に腰かけて、両手で足を一本ずつ持ち上げ、やっとのことで浴槽の中に体を沈めるほどだった。
ささやかな楽しみは、そうして風呂に入ったあとに飲む缶ビールだった。 自慢ではないが、病気が進行しようと酒だけは一日も欠かしたことがない。もともと酒好きで、かつては毎晩のように大阪の夜の街を飲み歩いた。難病になったからといって好きな酒をやめる気はまったくなかった。仕事が終わると、毎日、自動販売機で缶ビールを買った。
飲みたい一心とはいえ、これにも相当な工夫が必要だった。 まず自販機にできるだけ近づけて車を横づけにする。車のドアを開け、体の向きを変える。運転席に座ったまま、コインを投入し、購入ボタンを押す。取出しロに両手を突っ込んで缶を待ち上げる。傍から見れば、なんと横着なという光景だが、車から降りるよりも、このほうがずっとスムーズにいくのである。
五〇〇ミリリットルの缶ビール二本を、上着の左右のポケットに一本ずつねじ込むと作業完了なのだが、今度はアパートの階段を上がるのが大変だった。わずか1キログラムの負荷が、力を失っている足にこたえた。まるで三〇キロもあるキスリングを背負っているようだった。
開缶も指では不可能になった。プル・タブのリングにボールペンを差し込み、テコの力を利用して開ける。
風呂上がりに、ビールを喉に流し込んでホッと一息ついても、現実は何も変わらなかった。 体力の衰えは、仕事の都合を待ってはくれない。 相変わらず土地問題は暗礁に乗り上げたままで、借金は雪だるまのように膨れ上がっていった。
(次回につづく)
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