総合トップ > 春山 満について > メッセージ集 > もう一度この手で抱きしめたい もくじ
春山 満の僕の元気 〜春山 満 コラム集〜

春山 満の僕の元気 〜春山 満 コラム集〜 



第五章其の二




更新日:2011.2.2.
第五章 「父の手のひら」 其の二


■ 「水上飛行機で白浜温泉へ」

 私は一九五四年、兵庫県の尼崎市に生まれた。五人兄弟の三番目、上に兄と姉が一人ずついる。一九五〇年代といえば、まだまだ日本中が貧しかった時代である。
当時の私たち一家も例外ではなく、狭い五軒長屋の一つに暮らしていて、父と母は私たちを養うために必死に働いていた。
肉体労働などで何とかその日の糧を得ていた父は、私が幼稚園にあがるころになると貿易と不動産の仕事を始め、徐々に暮らし向きもよくなっていった。

 そんなある日のことだった。私が近所の悪童たちと長屋の路地で遊んでいると、その狭い路地に一台の大きなキャデラックがゆっくりと走り込んできた。
長屋にボロ自転車は走っていても、高級外車が来ることなどない。近所の人たちが何事かと外に出て見ていると、私の家の前に停まった。そしてキャデラックの後部座席から父が降りてきた。ダブルの背広に帽子をかぶっている。
白い手袋をした運転手が、車についた泥を丹念に拭いはじめた。

 「ミッちゃんのお父ちゃんや!」
 誰かが裏返った声で言った。無理もない、長屋の住人がキャデラックに乗ってきたのだから。父はそんな声が嬉しかったのか、泥だらけの子どもたちをすぐに車に乗せて近所を走り回った。
翌日から、私たち長屋の子どもたちは、運転手つきのキャデラックで、毎日幼稚園まで送ってもらうようになった。

 浹(はな)を垂らし、つぎはぎだらけの洋服を着た子どもたちが高級外車に乗り込み、長屋から幼稚園に通う光景は、さぞ滑稽だったろう。しかし当時の私には、友だちと一緒に車に乗れることが楽しいばかりで、毎日がお祭り気分だった。

 ときどき思い出して眺めてみるアルバムに、当時の写真がある。新調したばかりのオーバーコートを着て、ハンチングをかぶらされた私がいる。それまで冬でも裸足にズックしか履いたことのない子どもが、白いソックスを穿(は)き、革靴を履いている。

 このときのことを私は鮮明に覚えている。その恰好で、私は父に連れられ伊丹空港に行った。父が、突然、温泉に連れていってやると言ったのだ。それまで私の家族は温泉など行ったこともなかった。そして、なぜかこのとき、父は兄弟の中から私を選んで温泉に連れて行くと言い出したのだった。

 キャデラックに乗って空港に着くと、今度は水上飛行機が待っていた。行く先は和歌山県の白浜温泉だという。
私は生まれて初めての経験に驚き、ただただハシャギ回っているうちに飛行機は海岸近くの海上に着水した。すると、今度は海岸からホテルのモーターボートが波しぶきをあげて私たちを迎えにきた。
今思い返してみると、そのころ父は、事業に成功し、大金を手にしたらしいのだが、水上飛行機で白浜温泉へ行くというのは、そう誰にも真似のできることではなかったろう。

(次回につづく)





春山 満の僕の元気 〜春山 満 コラム集〜 春山 満の僕の元気 〜春山 満 コラム集〜
         
僕が取り戻したGood Time   闇に活路あり 僕がみた世界のGood Time 子供たちへ 壷中有天 新しい家族へ