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春山 満の僕の元気 〜春山 満 コラム集〜

春山 満の僕の元気 〜春山 満 コラム集〜 



第五章其の三




更新日:2011.2.9.
第五章 「父の手のひら」 其の三


■ 「貧乏から這い上がる」

 そればかりではなかった。間もなく、私たち一家は大阪市内の新居に引っ越すことになった。小学校二年生になる春のことである。新居に着いてみると、そこは尼崎の長屋とは天と地ほども違っていた。一五〇坪もある敷地に、門構えも立派な豪邸が建っていた。部屋の数は十二室。私は庭に突き出した離れに部屋を与 えられた。庭には築山があり、滝が流れ落ちる池があり、大きな錦鯉が泳いでいた。

「今日から、ここがわしらの家や、満」
父は、私の頭を乱暴に撫でながら得意気な顔でそう言った。
この家に住むようになってから、わが家の生活は一変した。中でも忘れられないのが、正月の大饗宴だ。元旦には三〇人ほどの親戚が一堂に集まって大宴会をし、翌日からは取引先や銀行など父の仕事関係者が入れ替り立ち替りやってきて、大宴会が繰り広げられた。

 池の向こうにある十二畳の二つの客間が料理部屋に変わり、そこで料亭から呼び寄せられた料理人が腕をふるっている。池には食用のスッポンや鯉が放たれており、それを網ですくいあげ、その場で料理して祝いの膳に並べさせる。

 そういう正月は、父の自慢の一つであった。今振り返ってみれば成り金趣味以外の何ものでもないが、貧しい生活から這い上がってきた父にとって、高級外車や正月の饗宴は、自分の成功を誇示するために大切なことだったのかもしれない。
その時代も、その後も、私はそういう暮らしぶりに嫌悪感を抱いたことは、一度もない。賑やかな正月は、小学生の私にとっては待ち遠しい祭りのようなものであった。

 また、父は小学生だった私にアメリカ製のゴルフのクラブを買ってきたことがある。日本経済がやっと高度成長期にさしかかる一九六〇年代初頭、ゴルフはまだ一部のお金待ちのスポーツだった。そんな時代にアメリカ製のゴルフ・クラブを与えられ、日曜日のたびに父に連れられてコースに出た。そのお陰で、私は高 校時代にはシングルの腕前になっており、父の仕事関係の接待ゴルフにつきあっては、小遣いを稼いだりしていた。

 ゴルフと言えば、父と最後に回ったのは、私が体の異変に気づきはじめたころだった。午前中にハーフを終え、昼食を摂ったあと再びコースに出た最初のホールで、スウィングしたクラブが私の手を離れて草の上に飛んだ。ゴルフを始めてから一度としてそんなことはなかった。しかし、そのとき、病魔は徐々に私の手 から握力を奪っていたのである。

(次回につづく)





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