更新日:2011.3.30.
第六章 「哲朗への手紙」 其の二
■ 「君を生んでいいものか 下」
結婚して初めての正月、杖とお母さんの支えがなければ歩けなかった父さんは、マンションの階段を踏み外し、転げ落ちたことがある。自分の手で体を支えきれず、あっと思った瞬間、 コンクリートの階段を顔から落ちていった。血だらけになった父さんの顔を見て、お母さんはこう言ったものだ。
「まるで、ムンクみたいや」
顔面を打って鼻から血を流している父さんの顔が、ムンクという有名な画家が描いた『叫び』という作品に似ていたからだ。父さんの鼻は今も少し曲がっているが、このとき鼻の骨を折ってしまったからだ。
父さんの病気は進行していくばかりだった。自分の身さえ自分で守れないのだから、とても子どものことを考えることなどできなかった。
それでも、お母さんは子どもがほしいという。お母さんは四人兄弟の中で育ったから、子どものいない家庭なんて考えられなかったのだろう。
最終的には、子どもがほしいという気持ちと病気が進行していく不安とが入り交じりながら、父さんとお母さんは子どもを作ることを決心した。病院での検査結果も大丈夫ということだったんだ。だから、父さんの病気が君や弟の龍二に遺伝している心配はない。
結婚して、自分たちの子どもを持つということは、父さんとお母さんという人間が、この世に生きた証だ。だから、君がお母さんのお腹の中に宿ったとき、どんなに嬉しかったことか。
(次回につづく)
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