更新日:2011.4.20.
第六章 「哲朗への手紙」 其の五
■ 「父さんが泣いた日 上」
父さんは男の子がほしかったから、とても嬉しかったが、じつはお母さんは女の子がほしかったのだ。赤ちゃんが生まれてくる前から、名前まで考えていた。
「逸香」という名前だ。
今、父さんの膝の上で昼寝をしている“イッちゃん”は、君が学校の帰りに拾ってきたメス猫だ。お母さんは君を生んだあとも、「逸香」という名前にこだわっていて、この生まれたばかりの猫に”イッちゃん″という名前をつけた。だから、イッちゃんは君とは兄弟のようなものだ。
君が生まれて、七ヵ月か八ヵ月のころだった。そのころ、父さんは不動産の仕事をする一方で、週末には「障栄福祉情報センター」という、父さんのような障害を持つ人たちに役立つ情報を提供する仕事もしていた。
その日も家でワープロに向かって原稿を書いていた。君は風邪をひいて隣の部屋のベビーベッドで寝込んでいた。前の日の夜から高熱を出し、赤い顔をして苦しそうだったが、朝になると熱も下がり、少し落ち着いたように見えた。
「テッちゃんが寝ついたから、私、ちょっと買い物に行ってくるわ。一時間もしたら戻ってくるからね」
そう言ってお母さんは出かけていった。そして一〇分ほど経ったころ、眠っていたはずの君が急にむずかりはじめ、そのうち大きな声をあげて泣きはじめた。ワープロの手を止めて、そばに行ってあげたくても、誰かに両脇を支えてもらわなければ立ち上がることもできない。いったん車椅子を使うようになると、もう自分の足では歩くことができなくなっていた。這ってでも行きたいが、腕の力がないためにそれもできない。
「テッちゃん、頼むから泣き止んでくれ。お母さん、すぐに帰ってくるからな」
必死で声をかけても泣き声はますます大きくなり、君の体は張り裂けんばかりだった。父さんは、そんな君に話しかけ、見守るしかなかった。
「テッちゃん、大丈夫や、お母さん、すぐに帰ってくるからな。それまで我慢してな」
子どもが目の前で泣き叫んでいるのに何もしてあげられない。助けを求めているのに父親として何もできない。
「テッちゃん、お父さんが子守歌、歌ってあげるからな」
父さんは、君の泣き声に負けないくらいの大声で、思いつくかぎりの子守歌を次々に歌った。そのとき、父さんにできるのはそんなことくらいだった。実際には二時間弱だったが、父さんにはひどく長い時間に感じられた。
(次回につづく)
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