更新日:2011.7.6.
第七章 「生命のサイコロ」 其の六
■ 「サインを見落とした 下」
私が筋ジストロフィーを宣告されたときだって、すぐに死ぬとは言われなかった。たかが頭が痛いというくらいで、哲朗が死んでたまるものか― 自分にそう言い聞かせながらも、体が震えた。
「もし、良性なら二週間くらいで菌がなくなりますが、今の段階では良性か悪性か判断できません。悪性だった場合に備えて、これからキツイ薬を使って対処します。菌がすでに脳にまで回っていると問に合いませんが、これはもう、賭けのようなものです」
私たちは、ただ頭を下げるしかなかった。悔いても悔やみきれない。哲朗は確実に私たちにサインを送っていた。
あれは、アメリカ出張から帰ってきたときのことだ。
「お父さん、もうお祖母ちゃんち行くのイヤや」
そうダダをこねる哲朗に、私は、「テッちゃん、ごめんな。お父さん、今、ものすごい仕事が大事なときやねん。ヨーロッパに行って、お土産いっぱい買ってきてあげるからな」と、その場しのぎに、ありきたりな言葉で哲朗をなだめただけだった。単に寂しいからそんなことを哲朗は言うのだと思った。そして、なぜ哲朗が「お祖母ちゃんちに行きたくない」と言うのかさえ、そのとき私は聞いてやろうともしなかった。
今、あのときのことを思い返してみると、「行くのイヤや」と言った哲朗の顔は、少し青みを帯びていた。食欲も落ちはじめていた。
私は、哲朗のサインを見落とした。ロ先では子どものことが心配だと言いながらも、少しも真剣に子どものことを考えもせず、自分の仕事に夢中になっていた。由子は子どものことを気にしていたものの、私を支えることに必死だった。彼女は、本当に子どもたちのことを気にしつつ、気にしつつ……、この後悔してもしきれない日を迎えてしまったのである。
(次回につづく)
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