更新日:2011.8.3.
第七章 「生命のサイコロ」 其の十
■ 「一時的な健康者」
一九九五年、私はニューヨークにいた。この年、アメリカ社会は大変な騒ぎのさなかにあった。クリントン政権の予算案が議会の承認を得られないため、公共施設の機能がすべて停止し、オフィシャルな窓口はことごとくクローズしてしまっていたときである。
ホテルにいた私は新聞に目を通していた。社説は福祉問題を採り上げていた。クリントン政権は、財政難を理由に老人医療の予算を五〇パーセントもカットするという方針を打ち出していた。それを受けて社説には次のように書かれていた。「高齢化や障害者の問題は、予算ではなく意識の問題として捉えるべきだ。いつまでも特殊な世界、特殊な人びとのケースという考え方を持っていては事態の解決にはならない。私たちは今後、テンポラリー・アビリティという言葉を使おう。健康とはテンポラリーな(一時的な)アビリティ(健康時代)を有しているにすぎない……」
それまでもアメリカでは、健康な人びとのことをアビリティ、障害を待った人びとや介護を必要とする人びとをディスアビリティと表現していた。しかし、この社説は健康な人びとをアビリティと呼ぶのをやめ、“一時的な健康者”と表現しようという呼びかけである。
日本語では障害者に対して、健康な人のことを健常者と表現する。しかし、つねに健康な者なんてこの世にいるのだろうか。誰もが一時的な怪我をしたり、女性の多くは妊娠を経験する。 誰しも、生まれてきたときには介護が必要で、年老いて人生を終えるころにも介護を必要とする。 そんな人間の一生を考えると、まさに健康な時代は一時的な「今」だけなのだ。この「今の健康」をより正確に自覚するために、「テンポラリー・アビリティ」という言葉をアメリカは造り出した。
私はこの記事を読みながら、哲朗の病気のことを思い出していた。
もしあのとき、哲朗が重度の障害を待ったとしても、それは一時的な健康状態から、健康でない状態に変化したにすぎない。しかも、その変化には偶然が大きく関わっている。あの小児病棟で偶然、健康を取り戻した哲朗と、運悪く重度の障害を持つことになった子どもが逆であったとしても、何の不思議もなかった。
病気や障害は特殊な人だけが経験するのではない。それなら、今、健康な人びとがいつ介護が必要になっても、誰もが快適に暮らせる環境作りをすべきではないのか―。私は社説を読みながら、目から鱗(うろこ)が落ちる思いがした。
何につけても仕事ばかりの私である。哲朗の病気も、結果的には私の目を開かせることになった。しかし、元気に走り回っている哲朗と龍二の姿を見るたびに、私は、その当たり前の風景がどんなに運がよく、幸せなことかを、あらためて痛感する。
(次回につづく)
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