更新日:2012.4.4.
第九章 「苦難に克つということ」 其の十
■ 「普通の生活」
由子に感謝と罪滅ぼしの意味を兼ねて、あるときから六月の彼女の誕生日に、バラの花束を贈ることにしている。彼女が私より一足早く会社を出たあと、秘書に頼んで花屋に電話をかけてもらい、年齢の本数分のバラを急いで家に届けさせる。何気ない顔をして家に帰ると、食卓の上には薄紫のトルコキキョウをあしらったバラの花が飾られてある。
「もう花はいいよ、どうしてもくれるというなら、もう数は増やさんといて」
去年の誕生日に、由子はそう言って嬉しそうに笑った。
彼女には結婚指輪を買ってやったくらいで、これまでプレゼントなどしたこともない。そもそも私は買い物に出かけるのが嫌いで、そういう意味でも女房孝行の夫ではない。
それなのに、由子のほうは私の洋服などをこまめに買ってきてくれる。
「ねえねえ、今日、カシミヤのいいブレザーがバーゲンで出てたのよ。バーゲンって言っても高かったのよ。これあなたによく似合うと思うわ」
もちろん、そんなときは私のブレザーだけではなく、ちゃっかりと自分のものも買い込んでいるのだから抜け目がない。
このところ、哲朗と龍二がかなりの程度、私の世話をすることができるようになり、由子が一人で買い物に出かける機会が増えた。ショッピングという普通の主婦の楽しみを彼女が手に入れたことが、私にはカシミヤのブレザーよりも嬉しい。苦難に克つとは、本人とその家族が、ごく普通の生活と笑いを取り戻すことである。
(次回につづく)
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